最初にこの本の話を聞いた時には、「ダーリンは外国人」の小栗さんが書いた「精神道入門」系の本なのかなぁと思って読み始めた。それは、ある意味では正しく、ある意味では間違っていた。
第一部の修行編−お寺の体験修行を実行してそのルポを書いている部分は似ているかもしれないが、こちらには、第二部の学び編がついていて、この部分に私は非常に興味をひかれた。
また、仏教人との対談が3つ入っていたのだが、ここが非常に面白いので、特にお勧めである。何故か対談部分だけ本の端の色が変わっているので、探し易い仕掛けになっている。

作者の千葉さんはお寺の娘さんであり、また物書きさんでもあるということで、対談の内容については、超初心者向けというよりは、少々踏み込んだ本になっていたように思うが、本の主旨として、初めて仏教に触れる人へのきっかけとなるように、ということがあるようなので、まずは一読をお勧めしたい。

余談だが、私はお経を読む人の声の質や抑揚やトーンには非常に煩い。お経は堂々と朗々と読んで欲しい。これが不味いと有難みも半減してしまうとさえ思っている。言霊のせいだろうか。
法事で、聞いているだけでなく自分でお経を読むのも好きである。正座のせいか不思議と腹から声が出るのだ。
今ではそんなことも久しくなくなって、寂しい限りである。
そもそも仏教を実践するとは、どういう行為を指すのだろうか?

実のところ、座禅とか滝打修行という行為は、目に見えて行動するという意味で、ハレに属する行為ではないかと思っていた。
普段日常的に行うというか朝課というか、毎朝仏様に手を合わせお経を唱えると言ったような、自分が慣れ親しんできた地味系のものとは大分違うので、今日びのいわゆる体験ブームのような現象については、実際には少々複雑な心境を持っていた。
そういう認識自体が、自分が慣れていた宗派(浄土真宗)の影響が大きかったということが見えてきたことだけでも、読んで良かったと思った。
そういう気持ちをお持ちの方にも、この本はお勧めかもしれない。
こういう本を読みながら、そんなことをなんとなく考えてしまった。

私の実家は一応浄土真宗大谷派の某寺の檀家だった。
私の母と母の妹の旦那様も今この寺で眠っているし、父の妹夫婦もここに生前から墓を買い求めている。子供がみな他家に嫁してしまったので、今後の行く末が頭の痛いところではあるが、少なくても自分や甥姪、他の親戚が生きている限りは世話をして貰えるものと信じている。

小さい頃から家族が毎朝仏壇に手を合わせている姿を見て育ち、ご飯が炊けると一番真ん中の良い場所を仏様にお供えし、お土産を貰ったら必ずお供えしてから頂き、正月のお参りには神社ではなく寺に行くのが当たり前という家で育った私にとっては、少なくても、仏様を敬うということは、日常生活におけるごく自然の行為であった。
それは仏様の教えを考えるとか勉強するとか追求するとか言った高尚な行為ではないかもしれないが、仏教を身近に感じていたことは確かだと思う。
子供時代に寺で行われた様々な行事(餅つきとか)も今では懐かしい思い出である。
私の実家は東京のベッドタウンとなっている神奈川の某市だが、そういう生活が当時であっても既にごく少数派に属していたらしいことは、大人になって気付いた。

現在、婚家の宗派は浄土宗で、同じ「南無阿弥陀仏」である。一応きちんとした浄土宗の都内のお寺にお墓もあり祖父母が眠っている。
実を言うとそれを知った時には少々安心したものだった。子供の頃から慣れ親しんだお念仏は、一朝一夕にはなかなか変えられない。手を合わせると自然と口をついて出てくるのは「南無阿弥陀仏」なので、これを変えるのは結構大変だろうと何となく思っていたのだった。

実際には、浄土宗と浄土真宗で法要に使うお経には共通したものがあって、それを聞いた時には更にほっとしたものだったが(^^;;)、他家に嫁いだんだということを特に痛感した出来事でもあった。
しかし、婚家の実家にもお仏壇はあって、義母がきちんとしているようだが、当の跡取り息子も肝心の父親も無関心そのもの。法事だけは何とかちゃんと参加していると言ったレベルで、まさに現代の家族の典型である。
仏壇があっても行動が伴わなければ次代に伝えることもままならないだろうと思うのだが、こちらにも肝心の次代の担い手がいない状態なので、頭の痛いことである。